2012年11月18日日曜日

11/10 哲学カフェまとめ


11/10に行われた、哲学カフェ「幸福を感じるとき」のまとめです。
今回は小金井哲学カフェとの共催で、小金井での議論をもとに、
幸福について考えていきました。書簡形式でのまとめを載せてみたいと思います。

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『びわ子とコガネイ氏の往復書簡』

お手紙ありがとうございます。
あなたのご意見をもとに、幸福について考えてみました。

まず、私は、幸福を考えるときに、「幸福かどうかは、個人の判断に応じて変わる」という
『判断説』と、「『本当の幸せ」というように、個人の判断に左右されない普遍的な形での幸せは存在する」という『存在説』の二つがあると考えました。
あなたはどちらかといえば「存在説」を前提にしているように思えましたので、
私は「判断説」に基づいて考えていきました。

・幸福は、幸福を感じる主体(本人)の主観のみに基づくと言い切れるか? 
 他人の目・判断の影響はあるのか?

→「判断説」に立てば、本人の主観のみに基づいて幸福は判断されるといえます。
 ただし、その判断の基準の中に、「他人からよく思われたい、承認されたい」という基準もあるので、他人の目はその基準に影響を与えます。


・幸福を感じる主体が感じる/体験する快と不快を総合的に勘案して、
快が不快を上回った状態が「幸福を感じるとき」といえるか。
・快/不快と異なる要因が幸福感をもたらすことは考えられないだろうか。
 あるとすれば、それは何か。

→二つまとめてお答えします。「幸福」と「快」は同じものとは限らないのではないでしょうか?
  確かに、「快」が幸福と結びつく例は数多くありますが、快・不快という身体的なレベルを超えて道徳や価値観も「幸福」をもたらすこともあると思います。
  

・幸福又は幸運の時間軸の関係。幸福は長いスパンで観た感覚、幸運は瞬間瞬間の体験?

→ご指摘にあったように、幸福は、長いスパンで続くもののことが多いように思えます。
 しかし、例えば「おいしいものを食べたとき」のように、幸福には瞬間的なものもあります。
 瞬間の体験を「幸運」とは簡単に言えないのではないでしょうか?
 あるいは、長いスパンで続く幸福と、瞬間の幸福は別のものなのでしょうか?

いままで考えたことをふまえて、私からあなたに聞いてみたいことがあります。

『幸福は、人生で一番価値があるものだろうか?』

世の中には、「幸せこそが最高の価値、幸せにならなければいけない」という考えがあるように思えます。みんな、自分が「幸福」であることを、あるいはそうでないことを周囲にがんばってアピールしているように見えるのです。
しかし、「幸福でなけらばならない」という強迫観念が、逆に幸福になることを妨げることもあるのではないでしょうか?

そもそも、『幸福は人生で一番価値があるものだろうか?』
あるいは、『私たちがは幸せでなけれなならないのだろうか?』という問いに関して、
あなたのご意見を聞かせてください。

びわ子より


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